角館總鎭守神明社

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由 緒


 神明社創建の時期については諸説があるが、安土桃山時代、この地を統治していた出羽角館城主戸澤氏の篤い祟敬をうけて古城山の一角に鎮座したとの説が有力である。
 その後、戸澤氏に代わって芦名氏が入部した。芦名氏は角館の町割りを行い、武家屋敷など城下町を整えた。神明社は、明暦二(一六五六)年そのあとに入部した佐竹北家によって現在の地に遷座されたと伝えられ、以来この処を神明山と称している。
 その頃より、神明社は時の佐竹北家をはじめ領民・氏子の總鎭守として限りない祟敬をあつめてきたのである。
 延宝四(一六七六)年より例祭前に神明社の獅子舞が全町内を廻るようになり、今も伝統行事として継承されている。
 九月七日の例祭においては仙北北浦神楽が奉納され、同日夕刻には各町内から曳き出される十八台の豪壮な山車が参拝し、飾山囃子による手踊りが奉納されることでも有名である。
 翌八日には神輿渡御が行われ、数多くの供奉者や参拝者で賑わう。
 平成十九年十月二十四日、昭和天皇第四皇女であらせられる伊勢の神宮祭主池田厚子様、神宮大宮司鷹司尚武様の御参拝を仰いだ。


「角館祭りのやま行事」
 例祭時の行事について紹介する。
 「角館祭りのやま行事」は平成三年、国指定重要無形民俗文化財に指定され、平成二十八年にはユネスコ無形文化財に指定された。
 角館には神明社のほかに勝楽山成就院薬師堂がある。かつてはそれぞれが異なる月日に例祭を執行していたが、明治初期以降紆余曲折を経て、現在では九月七日・八日に神明社例祭、九月八日・九日に薬師堂祭典を執行し、この九月七日・八日・九日の三日間、角館は祭り一色になる。


飾山囃子(おやまばやし)について
 飾山囃子とは祭礼に行われる歌舞である。飾山とよばれる歌舞伎などの人形で飾った山車を引き、その上で独特の囃子に合わせて娘が手踊りをする。山車の下部は幕で覆われ、太鼓、小太鼓、摺鉦、笛、三味線などを奏する囃子方と歌い手がいる。山車は、丁内毎に昔から継承されてきた独特の飾山があり、囃子、手踊りも異なる。


御祭神


主神

天照大御神(あまてらすおおみかみ)

相殿神

加具土神(かぐつちのかみ)
大名牟遅神(おおなむぢのかみ)
少彦名神(すくなひこなのかみ)
経津主神(ふつぬしのかみ)
武甕槌神(たけみかづちのかみ)
建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)
三嶋大神(みしまのおおかみ)
廣田大神(ひろたのおおかみ)
水波能賣神(みずはのめのかみ)
大山祇命(おおやまづみのみこと)
白峯主神(しらみねぬしのかみ)
伊邪那岐命(いざなぎのみこと)
伊邪那美命 (いざなみのみこと)


御神徳


 当神明社の主神であられる天照大御神は、『日本書紀』の中で、「此の子、光華明彩しく、六合の内に照り徹る」とあり、この神さまの明るく美しく輝くさま、またその光によって国土の隅々まで照り輝いたという様子が記されています。このことから、太陽神としての御神徳をもち、万物に影をつくることなく日なたを生み出し、すべてのものに様々な活力を与えてきました。
 また同じく『日本書紀』に「未だ此の若く霊異しき児有らず。[中略]自当に早く天に送りて、授くるに天上の事を持ちてすべし」とあり、その高い神秘性と霊妙なご存在から、高天原という神々のお住まいになる世界の主宰神となりました。
 つまり、天照大御神は、八百万の(様々な)神々の中心となる神さまであり、その他の神々と力を合わせることにより、さらに一層の御神徳を増す神さまであることがわかります。 
 これらのことから天照大御神は、動植物に限らず、八百万の神々に至るまで『万物に活力』を与え、その中を取り持つことから『物事の調和』をはかる神といえます。
 そのほかにも天照大御神は、田畑を耕して農作物を産し、養蚕、織物を奨めるなどして衣食住を満たし、安定した国土を経営した神さまでもあられます。
 当神明社では、その御神徳に因んで、
国土安泰、家内安全、福徳開運、勝運、良縁成就
の神として篤い崇敬をあつめています。