角館總鎭守神明社

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神明社所蔵絵馬『花下美人図』


 神明社には、秋田蘭画の祖といわれる小田野直武が18歳のときに描き、菅沢十六人衆によって、明和3年(1766)6月21日に奉納された「花下美人図」絵馬が所蔵されている。

 絵馬の裏面墨書から、直武は秋田藩の御用絵師であった武田円碩から狩野派の筆法を学んだことが明らかにされている。また、題材の浮世絵的素材からは、鈴木春信の錦絵の影響を受けていたことも窺がえる。

 当時、鈴木春信は江戸の浮世絵師としての名声が全国に知れわたり、山深いみちのくの角館にも伝来し、絵の修業中の直武が、いち早く春信の浮世絵に驚きと感興を持ち、「花下美人図」を描いたのであろう。直武は、武士という立場もあって狩野派に捉われず、様々な画風に関心を示し、作品に取り入れていたのである。

 その当時の直武は、職業として画を描いていたわけではない。しかし、絵馬として奉納する依頼絵を描いていたことで、その画才が既に認知されていたことを示している。


小田野直武について

 

 江戸中期の洋風画家・秋田藩士であった小田野直武は、寛延2年12月11日(1750年1月18日)角館所預佐竹義躬の槍術指南役の父・直賢の次男として角館に生まれた。幼名を長治、通称を武助といった。

 幼少より絵を好み、秋田藩の御用絵師である武田円碩に狩野派を学び、浮世絵、琳派、南蘋派とさまざまな画法に関心を示す。やがて絵の才能が認められ、佐竹北家の当主・佐竹義躬、秋田藩主・佐竹義敦(佐竹曙山)の知遇を受ける。

 安永2年(1773年)7月、鉱山の技術指導のために、平賀源内が秋田を訪れ、直武と出会う。一説には、宿の屏風絵に感心した源内が、作者である直武を呼んだという。

 源内は直武に西洋画を教えた。伝説では「お供え餅を上から描いてみなさい」と直武に描かせてみせ、輪郭で描く日本画では立体の表現は難しく、西洋絵画には陰影の表現があるのでそれができると教えたという。源内自身は「素人としては上手」という程度の画力であるが、遠近法、陰影法などの西洋絵画の技法を直武に伝えた。

 安永2年(1773年)10月、源内は江戸へ帰る。同年12月、直武は佐竹義敦に「銅山方産物吟味役」江戸詰めを命じられ、源内の所に寄寓する。

 そのころ、前野良沢・杉田玄白らによる『解体新書』の翻訳作業が行われていた。図版を印刷するため、『ターヘル・アナトミア』などの書から大量に図を写し取る必要があった。玄白と源内は親友であり、おそらく源内の紹介によって、直武がその作業を行うこととなる。

 実は既に安永2年(1773年)中に、『解体新書』の予告編である『解体約図』が発行されており、その図は熊谷儀克が描いていた。『約図』と『新書』の図を比べると、やはり直武による『新書』の方が、陰影表現の点で優れている。

 直武は『解体新書』の序文に「下手ですが、断りきれないので描きました…」といった謙虚なことを書いている。

 直武は源内のもとで、西洋絵画技法を自己のものとし、日本画と西洋画を融合した画風を確立していく。また、佐竹曙山や佐竹義躬に対し絵の指導を行った。この3人が中心になった一派が「秋田蘭画」または秋田派と呼ばれることになる。

 のちに日本初の銅版画を作り出す司馬江漢もこのころ直武に絵を習ったようである。

 安永8年(1779年)11月、直武は突然の「勤方緩怠」の罪名で「遠慮謹慎」を申し渡され、秋田へ帰る。おそらくは、源内の刃傷事件が起こり、かかわりあいになるのを恐れての処置と思われる。ただし、直武の帰国は刃傷事件の前だとする説もある。

 翌年の安永9年5月17日(1780年6月19日)に吐血し、急死する。死因は不明。病死説や、政治的陰謀による切腹説がある。直武は、その死の謎を残したまま享年31(満30歳没)の若さでこの世を去った。

 直武の死後、角館の万年山松庵寺に直武の墓が建てられた。刻まれた諡は「絶学源信信士」。絶学は、学問を中途で絶ったとする意味なのか、それとも「絶景」に示された「なみ優れた学問」たるの意味か。

 直武の突然の死は、秋田蘭画が向かうはずだった表現世界の未来を封印してしまった。しかし、直武らが切り開いた洋風画の系譜はその後の画人たちに受け継がれ、明治以降に発展する洋画の礎になったのである。

【代表作】
東叡山不忍池図(秋田県立近代美術館)重要文化財
唐太宗・花鳥山水図(秋田県立近代美術館)重要文化財
笹に白兎図(秋田市立千秋美術館)
岩に牡丹図(秋田県立近代美術館)