角館總鎭守神明社

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神楽について


神楽の始まり

 そもそも、神楽とは、なんでしょうか。広辞苑によれば、「神座(かむくら)」が転じたものとされています。かむくら、かんぐら、かぐらと変化していったというのが語源の定説です。また、この場合の神座は、一つの場所そのものを指すのではなく、神座における所作全般を意味しているようです。

  神楽を学ぶこと、それは信仰の歴史を学ぶことと密接に結びついています。日本の信仰の始まりは、縄文時代まで遡り、今に残る数多くの縄文時代の遺物からも、自然崇拝や呪術を重視していた古の暮らしを垣間見ることができます。

 自然崇拝からの流れを汲み、神が自然や事物に降臨し、鎮座するという観念が明確になってくると、神が降臨した際に身を宿す「依り代」としての巨石や樹木、そして太陽が昇り、沈む聖域である高い峰を祭祀の対象物とし、やがて、人の手が加えられた神座が設けられるようになっていきます。

 こうして神座に、神を迎え、祈祷の祭祀を行います。祈祷は、人々の長寿、豊穣な実り、また、災難を追い払うことなどが目的とされていたようです。

 

 

文献に見る芸能と神楽の起こり

 文献に、初めて芸能について書かれたものが登場するのは、「古事記」や「日本書紀」に書かれた「岩戸隠れの段」という神話です。天鈿女命アメノウズメノミコトという女の神様が、天の岩屋の前で足を踏み鳴らして踊り、天照大神アマテラスオオミカミが天の岩屋から出るきっかけを作ったというもので、この天鈿女命の踊りは、神楽を含む後世の様々な芸能の起こりと結び付けて語られています。

 では、「神楽」という名が文献に登場するのはいつ頃でしょうか。最古のものとしては、「万葉集(759年頃)」ですが、万葉集が編纂された頃は、まだ宮廷の神楽は形が整ってはいなかったようです。ここでは、鎮魂祭などの鈴の音を指しているものと考えられています。「古語拾遺(807年頃)」では、猿女君サルメノキミの仕事は神楽の事という記述があります。猿女君は天鈿女命の子孫であり、鎮魂を司っていたので、ここに出てくる神楽も、鎮魂祭を指しているものとされています。

  古語拾遺から半世紀ほど経て、貞観年間に編纂された「儀式」の中に、「祭儀が終了したに、歌舞を伴った神楽を行った」という記述があり、祭りを終えた後の神涼しめの遊びとされています。「楽」は、鎮魂を意味する古語である「アソビ」という読みもあり、中世には芸能を意味する語としても使われていました。

 

 

 神楽を伝える者たち

 神楽は、現在、日本全国で伝承されており、宮中で行われる御神楽と、民間で行う里神楽の2種類に大別することができますが、里神楽は、巫女、神主、山伏といった人々によって伝承されてきました。

  里神楽がどのように伝承されてきたのか。この歴史や変遷については、神楽の研究の中でも最も遅れている分野とされ、はっきりさせることは現段階では難しいようです。

 古来の巫女中心の神事としての神楽が、今日の男性中心の神楽に変遷する間に、神主や山伏など関わった人々の存在をはっきりと示しながらも、その道筋を知るためには、芸態から探っていくより他に方法はないようです。

 里神楽の種類は、戦後の神楽研究における第一人者であった本田安治氏の分類によれば、それぞれの特色に従って、@巫女の神楽、A出雲流の神楽、B伊勢流の神楽、C山伏神楽・番楽と太神楽を含む獅子神楽、D奉納神事舞の5つに分けられています。これらの神楽は、各種各様ですが、一貫した特色としては、必ず神座を設け、神々の招請をもって執り行うことが挙げられます。

  その後も、@採物神楽、A湯立神楽、B獅子神楽の3分類法などが発表されていますが、神楽は、それぞれの要素が重複している部分も多く見られ、明確に分けることは難しいようです。研究者の間では、今も分類に関する研究も進められていますが、現在、一般的な分類としては、本田安次氏の説に従ったものが軸となっています。

 古来の祭祀文化を伝えるもの。畏敬や感謝を込めた祈りの表現。神楽の目的は様々ですが、私たちの暮らしに寄り添ってきたものだと言えるでしょう。

 

神明社の神楽


湯立神楽

 湯立とは、釜に湯を沸かし、この湯をまず神々に献じて、その後、人々にふりかけて祓い清める神事です。湯立は、全国的に行われ、修験道でも行法に取り入れています。清めの神事である湯立を神楽の中に取り入れ、祈祷化したものを湯立神楽といいますが、その源流は伊勢流神楽(伊勢の神楽)と考えられています。
 県内の湯立神楽は、祓い清めの所作のみならず、笹の葉を束ねた湯箒で湯を掻き混ぜて、泡立ちや湯花の吹き出し具合で作占をするなどの神意を問う手段として行われてきたものも多くみられ、それに託宣を伴う巫女舞が奏されます。巫女舞だけではなく、湯釜の前で舞う全ての神楽舞を総称して湯立神楽と呼んでいます。
 その奏楽は、締太鼓・篠笛・銅拍子で行われます。また、湯立神楽を正神楽式というもので行う場合には、その他に長胴太鼓・小太鼓・鼓が加わります。
 湯立神楽が行われる祭場には、天蓋を始めとした様々な切り紙が飾られることも、この神楽の特徴です。

 

【湯立神楽次第】

先、打ち鳴らし(締太鼓・篠笛・銅拍子で奏楽)
次、大祓詞奏上(神職全員で奏上)
次、ケンザン湯清浄(ケンザンとは、元三祓[現在は天津祝詞]で湯釜を祓う詞を指す。湯清浄とは、湯釜を祓い清めて、締太鼓を打ち鳴しながら詞章を唱え、降神を行うことをいう。)
次、五調子舞(鈴と扇を以て舞う)
次、湯加持(湯箒で湯花を散しながら、四方を拝して舞う)
次、巫女舞(鈴と扇、続いてお手掛けと湯箒を持って舞う)
次、各種神楽舞(翁舞・神入舞・その他、但し省略も有)
次、〆切舞(祭場に張られた〆縄を小刀で切り外し、その〆縄、また神楽で使用した御幣や採り物を米を盛った膳の上に載せて舞う、神送りの舞)

 

巫女神楽

 古来、神が降臨する際の「依り代」として、樹木や、岩、そして人の手が加えられた柱や鉾などが神座として祀られてきましたが、人間自身が神座となり、神の降臨を請うた舞が独立して、巫女の神楽として成立したと考えられています。
採物を手にした巫女がまず身を清めるための舞を舞い、続いて右回り左回りと順逆双方に交互に回りながら舞います。やがてその旋回運動は激しくなり、しだいに巫女は一種のトランス状態に突入して神がかり(憑依)、跳躍するに至って、神託を下すことになるのです。
 舞という言葉はこの旋舞の動きが語源であり、跳躍を主とする踊りもここから生まれたとされています。中国の巫覡の舞の基本を示した『八卦舞譜』には「陰陽を以て綱紀と為す」とあり、舞踏の動作は陰陽を意味する左旋と右盤を必須とすることが記されています。それは太極図が表現する天地がいまだ別れる以前の陰陽混然の姿を示しているといわれています。
 秋田県内(特に平鹿・仙北)にみられる巫女舞は、神道系のものは少なく、妻帯修験者による巫女が舞ってきたものが多く伝承されており、その奏楽は、締太鼓・篠笛・銅拍子で行われます。

 現在は形式化されていますが、締太鼓を打つものが歌う神歌にあわせて巫女が歌うとか、巫女だけで神歌を単独で歌うなどは、本来は託宣を意味していたと考えられます。男性が舞っている神楽の中にも、もともとは巫女が舞ったものと考えられる神楽の演目も見られます。

 

獅子神楽

 神明社の獅子神楽は、毎年8月25日から29日までの5日間行われます。神が姿を現した獅子頭を「御神体」として奉じて、その獅子頭を巡幸しながら家々を訪れ、悪魔・悪霊祓いや火伏せや息災延命を祈祷する神楽です。
 この獅子神楽は、主に本県では雄勝・平鹿・仙北地方の神職、神楽師によって演じられる神道系の神楽にみられる獅子舞と同類であって、そのため、他の風流系獅子舞とは系統が異なります。蛇頭神楽や獅子舞神楽などと呼ばれることもあります。また、獅子舞といってもその他に山神舞などの神楽も演じられる場合もあり、これらを一括りとして獅子神楽と呼んでいます。
 この獅子舞では、総じて後ろ幕を広げ、獅子は地面を這わせるような仕草と、歯合わせをして拍子をとる所作がみられ、動きも速いのが特徴です。祈願者は、獅子の前に差し出した手拭いや衣類などを獅子に噛み食うようにしていただき、後にそれらを身につければ、病気・怪我などを免れるといわれています。
 神社祭礼に奉納演舞される獅子舞では湯立神楽を伴うこともあります

 

境内神社 青麻神社湯立神楽(5月8日 例祭)