角館總鎭守神明社

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神明社に伝わる昔話 其ノ壱


飛びシンチコ  [隠れミノと悪戯男]

 JR角館駅から十二、三分ほど歩いたところの小高い山の頂に神明社が鎮座している。長い石段の左右には杉が茂り、奥の御社殿が小さく見える。この神明社には、九州熊本の「彦一ばなし」に似た昔話がのこっている。この奇抜な話がどのようにして九州からながれてきたのか不思議であるが、大方この城下町の愉快な町民にありがちな早耳も一役買って出ているようだ。

 むかし、お伊勢さま(神明社)の森に子供の天狗がいた。きっと早く両親を亡くしたのだろう。いつも一人で元気に森の中を飛び回っていた。むやみに鼻高で顔が赤く、頭のトキンも立派で、羽のうちわを持った姿は、もう一人前の天狗の貫録だった。ただ人間が近づくと、慌てて隠れミノを着て姿を消すのは、やはり子供の羞恥心からなのだろう。
 ある日、この森に角館の城下町でも名の通っている怠け者の若者がやってきた。いつもノラノラしているので、人は彼を背干し男と呼んでいた。
 天狗はちょうど杉の枝に腰掛けて、羽根うちわを涼しそうに使っていたが、下に背干し男がきたので隠れミノで姿を隠した。すると、背干し男は懐から丸いものを出して空を見上げ、「あっ、天狗が見える、見える。」と叫んだ。びっくりしたのは天狗だ。よく俺の姿が見えるなと正直に考えたので、急にその丸いものが欲しくなった。何のことはない、背干し男が目にあてて見ていたのは穴あき銭なのだ。だが、天狗は子供だ。とうとう隠れミノを取って背干し男の前に現れた。
 「その丸いもの、何かと取り換えないか。欲しいんだ。」
 「だめだ。これは先祖代々伝えられてきた宝物だ。」
 「そういわずにおくれよう。」
 「だめ、だめ。」
 顔色をよんだ背干し男。ますます欲しくなった天狗の子。「なあ、天狗、お前は世の中で何が怖い……なにヤブだって……俺は砂糖餅だ。ひとつ鬼ごっこして、俺が負けたらこの穴のあいたやつをやろう。」
 天狗が夢中で追いかけると背干し男はヤブの中へ隠れた。天狗はゾッとしたので、砂糖餅を投げた。背干し男は、うまいうまいと食べた。
 「降参だ。何でもやるからその丸いものおくれよ。」
 天狗の子はベソをかいてねだった。
 「それならしょうがない。隠れミノをくれ。」
 天狗の宝物をまんまとせしめた背干し男は毎日姿を消して空を飛び回った。
そのうち悪戯っけがでてきて、手掴みで店のものを盗ったり人を殴ったりして、町の人を困らせた。一番心配したのは女房だった。毎日ほっつき歩いて家に帰らないので、ある時こっそり隠れミノを盗み取って焼いてしまった。
 背干し男は長大息した。この世で一番不幸なのは俺だと泣いた。しかし悪智恵ははたらくもの。男は残りの灰の上を転げ回った。ところがシンチコ(ペニス)へ灰を塗るのを忘れた。飛んでいくと姿は見えぬが、シンチコばかりがポッカリ空に浮かんだ。町の人は「飛びシンチコ、飛びシンチコ。」とはやし立てた。
 ある日の事、大きな酒屋の酒樽のそばでイビキが聞こえた。店のものがいってみると、樽の栓が抜けている。「これは飛びシンチコの仕業。」と辺りを探してみると、なるほど、シンチコがあった。そこで水を掛けると灰が取れ背干し男が現れた。
 「今度こそ逃がさぬぞ。」と店の若者が寄ってたかって袋叩きにしたので、さすがの背干し男も泣き泣き家に帰り、その後は金輪際悪事をはたらかなくなったということだ。

 

神明社に伝わる昔話 其ノ弐


「伊多波武助」奉納の狛犬

 昔、北秋田郡早口村田代嶽の付近の村に十三歳ばかりの孤児がやって来た。聞くところによれば九州か四国から親子連れで旅に出たのだが、その途中で親に死なれたということであった。

 この少年が村なかをぶらぶらとやって来たら、運悪くコウレン売りとぶつかって、売物のコウレンをめちゃめちゃにしてしまった。一日分の売物を台無しにされたコウレン売りは大いに怒ってその子に弁償させようと迫った。弁償したくてもその少年にはお金が無かったため、騒ぎが大きくなり、可哀想に思った村人達が集まり金を出して弁償してやることにした。すると少年は「見るとコウレンは全部に全部割れたわけではないから、割れた分だけの代金を払ってほしい。」と申し出た。これを聞いていた村人の一人が、なかなか見どころがある小僧だと思い、この少年を自分の家に連れて帰った。

 ある日のこと、この少年が囲炉裏火にあたりながら灰を掻き回していると、カチリと火箸の先に当たるものがある。取り出してみると何か金でも溶けたようなものであった。少年は猶も灰の中を掻き回すと、二つも三つも出でくる。それを集めてよく調べてみるとそれは全部金塊であった。少年は何故こんなものが囲炉裏に入っているのだろうかと色々考えた末、これはきっと炉に焚く柴に金粉がついてくるのだと思い、家の人に聞いてその柴山に行ってみると、果して全山良質な金山であった。これが現在の長慶鉱山の発見の経緯であるという。

 この少年こそ、明和、安永(1764 〜1780 、但し明和年間は8年)頃の長慶鉱山の開発で知られる伊多波武助であったという。

 武助は、もともと敬神の念の篤い人であった。鉱山師として成功を修めた武助は、あるとき、角館の神明社に狛犬を奉納した。何故、武助は遠く離れた神明社へ狛犬を奉納したのであろうか。余程深い御神縁で結ばれていたに違いない。このことは、当時から神明社の御神徳が広大無辺であったことを示している。

 伊多波武助が奉納した狛犬は、現在は鼻も耳も欠けてしまってノッペリとした顔立ちとなっているが、ひっそりと境内で神明社を護り続けている。

 

 

【伊多波武助について】

 16世紀中ごろから17世紀前半にかけて、全国的に鉱山の開発が実施され、最盛期を迎える。武助は、出羽国秋田郡比内岩瀬村(現、秋田県北秋田郡田代町)で鉱山経営に従事し、もと高橋姓で松坂屋と称していた。岩瀬は有名な阿仁鉱山の北に当たり、付近には当時有数の鉱山が点在していた。

 十三才で浪人となり秋田に入った武助の出身は、伊勢国多気郡波多瀬村(現多気郡勢和村)で、秋田藩佐竹氏の身分取立ての際に郷里の伊勢・多気・波多瀬にちなんだ「伊多波」姓を名乗るようになったという。

 その後、若き鉱山師として頭角を現し、巨万の富を築くことになった。武助の宏壮な屋敷は人目を引き、古川古松軒の『東遊雑記』では、「都がたにも稀なる家もあるやとおのおの立ち止まりて見物せしほどなり」と形容されている。

 また、土崎にも別邸を構え、大ぶりのニシンだけを選り抜くことを表す“イタバククリ”という言葉を生んだ。

 佐竹藩への献金は、伊多波家四代で総額十二万両(120億円)にも上り、その功績によって武士に取り立てられた。二代目・武助の時代に至り、新家武士としては領内最高の一千石を与えられた。

 実のところ、文献上では武助が長慶鉱山を請山(うけやま)したのは、わずか一年ほどの間のことであった。長慶鉱山は南北朝時代の長慶天皇が落ちて、崩御された場所と云われている。武助が常に長慶鉱山と結びつけて語られるのは、華やかな生涯が伝説の鉱山に相応しいからなのであろう。

 秋田県北部の社寺には武助の寄進によるものが数多く残り、繁栄の跡を今に留めている。