角館總鎭守神明社

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「菅江真澄終焉の地」碑

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 神明社の鳥居をくぐると、直ぐ左側に「菅江真澄終焉の地」碑が建っている。この碑は昭和3年5月、菅江真澄百年祭を挙行した際「角館史考会」によって建立されたものである。

 「角館史考会」とは、民俗学者柳田国男の知遇に接していた角館町在住の考古学研究家武藤鉄城の影響をうけた地方史に興味を持つ人たちが、昭和2年11月におよそ10名で結成した会である。武藤鉄城は、真澄の終焉の地で、百年祭を開くことを角館史考会の人たちと積極的に推進した。

  昭和3年5月に菅江真澄百年祭が、秋田市と角館町において挙行された際、秋田市での柳田国男の講演は、秋田県内の考古学や史学の徒に初めて民俗学の目を開いたといって過言でない。同じ時期に角館町では、武藤鉄城への信頼が厚い東北帝国大学の喜田貞吉教授が講演を行った。

 菅江真澄の研究は、柳田国男によってその緒口がつけられ、横手市の民俗学研究家深澤多市によって"秋田叢書"が発刊され世に広く紹介された。

 

菅江真澄について

 

菅江真澄は本名を白井秀雄、幼名は英二といい(知之、白超とも名乗った)、宝暦4年(1754)三河国渥美群牟呂村字公文(現在の豊橋市牟呂公文町)に生まれたと伝えられ、定住の地はなく、行脚に明け暮れる一生を送った。父の名は秀真、母は千枝といい、 家職は祈祷施薬、白太夫の家筋であった。少年時代は岡崎城下成就院の稚児となり、吉田藩の文化人植田義方に和学、和歌を学んだ。思春期に尾張へ移り、国学者で熱田神宮の祠官粟田知周の知遇を得、明和7年(1770)頃から尾張藩の薬草園で薬草栽培にたずさわり、本草学を修めるという経験をつみ、また、丹羽嘉信について漢学、画技を、浅井図南から本草学、医学を修得した。生家に戻ったのは安永9年(1780)であった。この頃から各地をしばしば巡って紀行を執筆した。

 天明3年(1783)のとき、30歳で故郷を出奔した。その理由は不明であるが、故郷を離れてからも、郷里の知人に音信を知らせたりしていることから、事件に関わってのこととは思えない。北を目指して旅に出た真澄は、信州から越後を通り、翌年の暮れに秋田の地に足を踏み入れた。以来信州、東北から蝦夷地にいたる長い旅を重ねる。

 旅先の各地で、土地の民族習慣、風土、宗教から自作の詩歌まで数多くの記録を残す。特にそれに付された彼のスケッチ画は、写実的で、学術的な記録としての価値も高い。著述は100種200冊ほどを数え、「菅江真澄遊覧記」と総称されている。
 
 行脚すること3年、本土へ戻ったのは寛政4年(1792)であった。同7年(1795)、津軽藩領へ入り、寛政9年(1797)9月、真澄は津軽藩主津軽寧親によって、開設されたばかりの藩校稽古館によばれ薬事係に任命された。これは、津軽藩の薬草の自給自足をはかるためでもあった。真澄は藩医たちと薬草採取を行い、藩の期待に応えたが、 寛政11年(1799)4月、突如その任を解かれ帰国を促された。しかし真澄は、その後2年間津軽藩内を歩き、見聞きした事柄をまとめ『岩木山物語』『善知鳥物語』『浪岡物語』を著した。しかし、これらのことで、津軽藩は真澄を南部藩の間者ではないかと疑い、 寛政13年(1801)に、3冊の本や差し障りのある記録を没収し、真澄を津軽藩から追放した。

 享和元年(1801年)に真澄は秋田に入り、藩内をくまなく歩いた。再度の秋田入りをした際には白井真隅と名乗ったが、文化7年(1810年)の日記『氷魚の村君』(ひおのむらぎみ)からは菅江真澄と名乗っている。文化8年(1811)、真澄は秋田藩金足の豪農奈良家を訪れ、ここで秋田藩の藩校であった明徳館の学者、那珂通博に出会い、また藩主の佐竹義和にも会うことができ、出羽六郡の地誌を作ってほしいと頼まれた。以降彼は、秋田藩の久保田城下に住み、藩主とも親交を持ち、秋田藩の地誌の作成に携わった。
 
 結局真澄は、45年間一度も故郷に帰ることなく、奥羽の北辺から蝦夷にまで足を延ばして、数多くの紀行文や地誌を残し、常民の暮らしや生活に絵を添えて克明に記録した。その作品群は、明治の末、日本民俗学を確立した柳田国男によって民俗学の鼻祖と高く評価された。
 
 文政12年(1829)、地誌「月の出羽路仙北郡」調査の途中、田沢湖町神代梅沢で病を得、神明社神職家に移されたのち、同年7月19日、76歳で没した。


 真澄の遺骸は友人鎌田正家(秋田市の古四王神社の摂社田村堂の神職)の墓域に葬られた。

 その後、天保3年(1832年)に3回忌をもって墓碑が建立された。墓碑の高さは約1メートルあり、正面に大きく菅江真澄翁墓と刻まれた墓碑銘は、真澄の弟子鳥屋長秋が書いた。また、そのまわりには、次のような万葉調の長歌の墓碑銘が刻まれている。
     

 友たちあまたして石碑立る時よミてかきつけける

  三河ノ 渥美小国ゆ
  雲はなれ こゝに来をりて
  夕星(ゆうつづ)の かゆきかくゆき
  年まねく あそへるはしに
  かしこきや 殿命(とののみこと)の  
  仰言(おうせごと) いたゝき持て
  石上(いそのかみ) 古き名所(などころ)
  まきあるきかけるふミをら
  鏡なす 明徳館に   
  ことごとくさゝけをさめて 
  剣太刀 名をもいさをも
  万代(よろずよに)に きこえあけつる
  はしきやし 菅江のをちかおくつき處         鳥屋長秋

  (墓碑側面)文政十二己丑七月十九日卆年七十六七

 

 墓碑は、1962年(昭和37年)に秋田市史跡第一号に指定されている。

 真澄は「しるべなき 月の出羽路われ迷う つけし千鳥の跡も恥ずかし」という歌を残しているが、これは佐竹北家御抱医師であった吉原由之氏が詠ぜられた歌「久かたの 月の出羽路書きしるす 筆の跡こそ千代もすむらめ」に対しての返歌である。

 真澄の著書は、文政5年(1822)に明徳館に献納され、明徳館の事業として編纂された『雪の出羽路 平鹿郡』『月の出羽路 仙北郡』も明徳館に献納され、現在は秋田県立博物館が収蔵する。また、『自筆本真澄遊覧記』89冊は、平成3年(1991)には国の重要文化財となっている。
 
 真澄没後に書斎に残された著書は、墓碑建立に協力した人に形見分けされた。これらは旧久保田藩士の真崎勇助によって収集され、現在は、大館市立中央図書館が収蔵し、昭和33年(1958)には『菅江真澄著作』47点として秋田県有形文化財に指定されている。

 真澄は秋田に住み始めた頃から、道士のような被り物を頭に被るようになった。そのことから人々に「常被り(じょうかぶり)さん」と呼ばれていた。これはそもそも三河国(豊橋市)を出奔するに至った刀傷を隠すためではとも推測されたが、実際にはそのような傷はなかったといわれる。また、これは津軽藩を追い出された後の事であり、津軽藩で嫌疑をかけられたことを繰り返さないとそのような姿になったとも言われている。いつも黒頭巾で頭を隠していた真澄は、一生を独身で過ごし、多くの謎を残したまま、その生涯を閉じたのである。