角館總鎭守神明社

文字の大きさ

古事記について


『古事記』は現存する日本最古の文書で、編纂(へんさん)されたのは、和銅4年(西暦712年)のことです。現存する日本最古の文書といっても原本は消失しており、現在は写本のみが残っています。
平成24年(西暦2012)に、『古事記』が編纂されて1300年目の年を迎えました。
『古事記』とは、神話を含む日本の建国の歴史、動乱の歴史を物語風に編纂した古典です。『古事記』は、以下の構成で出来ています。
・上表文(前書き。筆者が天皇に対して奉る文書)
・上つ巻(創世神話〜初代神武天皇まで)
・中つ巻(初代神武天皇〜第15代応神天皇まで)
・下つ巻(第16代仁徳天皇〜第33代推古天皇まで)



「上表文」について


『古事記』には、冒頭に「上表文(じょうひょうぶん)」というものが書かれています。
この、「上表文」とは、天皇に対して文書を奉ること、また、その文書のことをいいます。
簡単に言えば、“目上の方に対する挨拶文”のようなものです。
「上表文」は、文書(もんじょ)=特定の相手に意志を伝えるもの(手紙、登記など)に当たります。この「上表文」に、1300年前の『古事記』編纂の経緯が書かれているのです。
『古事記』、そしてその冒頭の「上表文」を書いたのは、太安萬侶(おおのやすまろ)という大和朝廷の役人でした。『古事記』編纂当時は平仮名、片仮名が発明されていなかった為、文字は漢字のみ、形式は漢文調で書かれており、現代の日本語の文章とは大分異なります。ここでは、「上表文」の現代語訳文を紹介したいと思います。



古事記 上表文(現代語訳)


臣、安萬侶が申し上げますのには、そもそも、宇宙の根本は既に凝結していましたが、森羅万象はまだ現れておりませんでした。
その原始のあらゆるものは名前もないしその働きもありません。誰もその元始の形を知りません。
しかしながら、天と地が初めて分かれた時、三神(天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神)が物事の始まりとなられて、男女の両性がここから始まり、二霊(伊耶那岐命・伊耶那美命)が万物の親となられました。
こういうわけで、伊耶那岐命が黄泉国へ往来し、目を洗った時に太陽(天照大御神)と月(月読命)が現れ、海水に浮き沈みして体を洗った時に、多くの神々が現れました。
このような次第で、天地万物の始めは奥深く暗くてはっきりしませんが、古伝承の教えから、伊耶那岐命、伊耶那美命の二神が国土を宿し、大八洲をお産みになられた経緯を知り、先代の賢人の伝えで神を生み、皇位継承者を立てた時を知りました。
まことに、次のことが分ります。
天の石屋戸の前で榊に鏡をかけて天照大御神を招き、須佐之男命が天照大御神の珠を噛んで吐き出すと、天忍穂耳命以下の五男神が産まれ、代々の天皇が皇統を継ぎ、天照大御神が須佐之男命の剣を噛んで吐き出すと、三女紳が生まれ、須佐之男命が八俣大蛇を退治し、八百万の神々が繁栄したということを。
天の安の河原で、八百万の神々が葦原の中つ国を平定する使者の派遣会議を開き、天下を平定し、建御雷神が出雲の国の伊耶佐の小浜に天降って大国主命に国譲りを説き、国土が洗練されました。
これによって、番能邇邇芸命が初めて高天原から高千穂の峰に降臨され、倭伊波禮毘古の天皇(初代神武天皇)が日向国から大和国へ巡歴、都を制定なさいました。
神武天皇はその折、怪しい熊の毒気に当てられ、天照大御神・高木神の配慮で、高倉下の捧げた神剣により救われ、尾のある人の歓迎を受け、八咫烏の案内により、大和国吉野へ導かれました。
大和国忍坂では、舞を舞わせて、歌を合図に賊を討伐されました。
さてまた、崇神天皇(第十代天皇)は夢の啓示により神祇祭祀を敬われました。これにて国家を平定なさいましたので、賢明な君主と称え申します。
仁徳天皇(第十六代天皇)は、民家のかまどからの炊煙が少ないことにお気づきになり、庶民の貧窮を察し、課役を三年免除し、人民を愛撫されました。それゆえに、今日聖帝とお伝えしています。
成務天皇(第十三代天皇)は、国郡の境界をお定めになり、国土を開発されました。
允恭天皇(第十九代天皇)は、氏や姓の混乱を心配され、諸氏族の正しい氏姓をお調べになり、飛鳥宮で整えられました。
このように、歴代天皇の治政には緩急があり、華美と質朴との違いはありましたが、これまでの歴史をかんがみて、風教と道徳が既に崩れているのを正しくし、現今の情勢を見定めて、人間の正道が絶えようとするのを食い止めないことはありませんでした。
飛鳥の清御原の大宮で大八州を領有支配された天武天皇の御世に至っては、大海人皇子(若き日の天武天皇)、天子の資質を備えられ、皇子は好機に乗じて行動されました。
夢の歌を占いで解き、天業を継ごうと思われ、吉野を出て夜半、伊賀国名張の横河を渡ろうとした際、天に渡る黒雲を見て、皇位の継承は我にあり、と判断されました。 
しかし、天運の開ける時がまだ至りませんでしたので、大海人皇子は政争の危難を避け、皇子の地位を離れて近江から脱出、吉野山へと出家されましたが、皇子に心を寄せる人が多く集まり、東方の諸国に威風堂々と進軍なさいました。
大海人皇子は、輿にお乗りになって、心ならずも急にお出ましになり、少ない兵力で山川を越え渡り、大海人皇子の軍勢は雷の如く威を振い、そこへ高市皇子の軍が加勢し、猛烈な勢いで進軍されました。
矛を突いて威力を現し、勇猛な兵士が煙の様に起って加勢し、赤い旗が兵力を輝かすと、近江朝の敵軍は瓦が崩れる様に一挙に敗れました。
この様にして、十二支が一巡りも経たないうちに、妖気が自然に澄みました。
この壬申の乱が平定したので、軍用の牛馬を放ち休ませ、軍隊を整え、帰して大和国に凱旋し、軍旗を巻き、矛などの武具を納め仕舞い、平和の喜びに歌い舞われて飛鳥の都に落ち着かれたのでありました。
その年は酉年、その月は二月の事、飛鳥の清御原の大宮において、天皇の位に即位されました。
政道は古代中国の黄帝を超え、聖徳は周の文王・武王を上回るほどでした。
三種の神器を継承されて天下を統治され、皇位につき天下くまなく統合なさいました。
陰陽五行の運行の正しさのとおりご政治が行われ、神祇祭祀などの神の道を復興し、世の中を良い方に伸ばし、すぐれた徳風を施して、その及ぶ国の範囲を定められました。
そればかりではなく、天武天皇の御英知は、海の如く広大で、古い時代のことを深く究め、御心は鏡のように明澄で、よく前の時代のことをお見通しになりました。
そこで、飛鳥の清原の宮で即位した天武天皇が仰せられました。
「私が聞いたことだが、『諸氏族が持つ帝紀と本辞は、もはや真実から遠く離れて、自家に有利にする為に多くの虚偽を加えている』とのこと。
今日の時点で、その誤りを改めなかったら、もう数年も絶たないうちにその真実はきっと滅びるだろう。
この「帝紀」と「旧辞」はそもそも国家組織の根本にあたり、政治の基礎であるぞ。
そこで帝紀をまとめ旧辞を調べて虚偽を削り真実を定めて、これを後世に伝えようと思う。」
と。
たまたま、天皇の御側に、ある舎人(男)がおりました。
姓は稗田、名前は阿礼といい、年令は二十八歳でした。
聡明で、ひと目見れば口で暗誦し、一度聞いたら記憶しました。
そこで天武天皇は阿礼に命じて、歴代天皇の皇位継承の次第と、昔からの時代の伝承を誦み習わせられました。
しかしながら、時代は移り、世の中が変わって、その計画は後世にお伝えになるまでには至りませんでした。
拝伏して考えますには、今上陛下(元明天皇)におかれましては、天子の徳は天下に満ち、天・地・人の三才に通じて民を慈しみなさいます。
皇居におわしまして、その聖徳は馬の蹄(ひづめ)の進みゆく僻遠の地まで包み、皇居の御座にいられまして、その皇化は船の艫(へ)の漕ぎゆく海の果てまで照らされました。
太陽が浮かんで陽光が重なったり、雲が煙のようにたなびいたり。
別々の木の枝が一つにくっついたり、一つの茎に稲や麦など多くの穂がついた穀物など、めでたいしるしを表す瑞祥(ずいしょう)、これらを史官は絶えず記録しておりますし、また次々に烽火(のろし)を炊き上げて知らせ、幾度も通訳を重ねて来朝する、遠国の使臣がもたらす献上物が、宮廷の倉に毎月溢れています。
陛下(元明天皇)の名は中国の夏の禹王よりも高く、その聖徳は古代中国の殷の湯王よりも優れておられると申し上げるばかりです。
そこで、陛下(元明天皇)は、旧辞が違っているのを惜しまれ、帝紀に誤りが混ざっていたのを陛下(元明天皇)が修正しようとなされて、和銅四年九月十八日をもって、臣、安萬侶に命令して、「稗田の阿礼が誦むところの、天武天皇仰せの旧辞を記録し、まとめて献上せよ」と仰せられましたので、謹んで、仰せのとおりにこと細かに採拾いたしました。
しかしながら、上古の時代は言葉もその意味も素朴で、文章を作り書き綴る場合、漢字で書くとなると、それは困難です。
全く、訓によって述べたものを見ると、言葉が意味に一致しません。
全部を音によって書き連ねたものを見ると、見た目に長すぎます。
こういうわけで、ここに、本書の表記上の方針として、ある場合は一句の中に音・訓を交えて使い、また一方、事柄によっては全部訓を使って書きました。
その場合、文脈が分かりにくいのには注を使って明らかにし、意味の分かりやすいのは全く注をつけません。
その上、姓の場合、日下を玖沙訶(くさか)と読み、名前の場合、帯の字を多羅斯(たらし)と読みます。
このような見なれた文字は、原資料のとおりで改めません。
すべて記述した内容は、天地の開闢より始めて、小治田の御世(推古天皇)で終わります。
そこで、天の御中主の神より下、日子波限建鵜草葺不合の命より前を、上つ巻として、神倭伊波礼毘古の天皇(神武天皇)より下、品陀の御世(応神天皇)より前を、中つ巻として、大雀の皇帝(仁徳天皇)より下、小治田の大宮(推古天皇)より前を、下つ巻として、あわせて三巻を記録して、謹んでこれを献上いたしますことを、臣、安萬侶、かしこみかしこみも申し上げます。
和銅五年正月二十八日
正五位上勲五等太朝臣安萬侶